ドルヲタ歴3年経ち、久しぶりにアイドルアニメを観たら……

WUGの2期が始まったので観た。個人的な事を言えばそれでハマってしまった。「アニメ」として面白くなっていたのだ。カメラワークやダンスシーンがCGによって慣れ親しんだ物になっていた。人気アイドルアニメである「ラブライブ!」を彷彿とさせる演出にかわり、僕を含めて視聴者は意識せざるをえなかったろう。
そしてWUGにますます興味が出てきた。
キャラクターデザインが変わり、監督の山本寛(以下、ヤマカン)が降板というニュースは以前から聞いていた。
「ヤマカンがいた頃のは、ヤマカン自身やパンチラダンスシーンばかり話題になった印象だったな。2話の健康ランドシーンを観てドン引いてしまったけど、あれを除いて観たら…」
作品としてファンがついている現状からみるに、あれほどエキセントリックなヤマカンが監督していて視聴者がついてきたのか、という謎を知りたくなった。
そこから遡るようにして前編後編に渡る劇場版「青春の影」「Beyond the Bottom」、テレビアニメ1期を観た。

3年前にアイドルを知りたての時に薦めてもらい観たが、「アイドルアニメ」にしては異色なのもわかったが、正直な話ピンと来なかった。どうしてそこまで薦めてくれた彼を引きつける物があるのか。「アイドルとは何か?」という漠然とした問いと「人を幸せにできる人は3つのタイプがある」という島田真夢の劇中で繰り返されるセリフの関係性がわからなかったからだ。クライマックスのダンスシーン、ローカルアイドルというアイドルアニメとしては新鮮な切り口は分かったけれどもそれだけのように思えたからだ。偶然観た2話のスーパー銭湯での水着営業シーンに下世話さや嫌悪感を感じてしまったのもある。
当時の僕は「アイドルアニメ」については観ていたし知っていた。『アイドルマスター』『アイドルマスター シンデレラガールズ』、『ラブライブ!』『アイカツ!』『プリパラ』は観ていたし、シンデレラガールズの1st、2ndライブに行き、スターアニスNHKホールでのワンマンライブも行った。でも、実際のアイドルについてはほとんど何も知らなかった。
ひめキュンフルーツ缶のライブに2度行き、プロデューサーの伊賀さんからチェキ券(500円)を買おうと1000円を出すも「1枚でいいの?」と言われて、つい2枚チェキ券を手渡され1000円取られたという鮮やかな手に引っかかる程にズブの素人だった。そのとき撮ったまいまい(岡本真衣)を2周したチェキが今もまだ残っている。

つまり自分が「アイドルアニメ好き」としてWUGを観ていたので、その時点では「ヤマカン……大丈夫か?」という決して好意的ではない評価をせざるを得なかった。

もちろん、WUGは「アイドルアニメ」だ。
でも、珍しく「スクールアイドル」や「スターライト学園」などといったフィクションの設定で「アイドル」のあり方をアニメの世界で定義していない。そういうフィクションの大枠で誤魔化さない「リアリティ」を担保していた。脚本面も含めてアニメというよりは邦画やノンフィクションに近い「アイドルアニメ」だ。
アイドル関係のドキュメンタリーは盛況でAKB48やBiSのドキュメンタリーが昨今は有名だ。
(6話の藍里を切り捨てて活動を続けるかどうか10分で決めろと言われる中でのメンバーのやり取り、7話の藍里と佳乃が本音をぶつけて泣くシーンはアイドルアニメとして硬派な脚本だ。
アイドルマスター 輝きの向こう側へ』で、志保が「私たちにはもう時間がないんです!」と憤り、ダンスを変えるかどうかを決を取るシーンがあるが、あれを「シリアス展開」と呼ぶ人が多いことに当時驚いた。
ラブライブ!』でもなんの脈絡もなくことりがフランス留学を決めて、ラブライブに出場できないというメンバーが浮かない顔になる展開が起こる。ラブライバーやオタクに言わせれば「シリアス展開」らしい。
でもそれは違う。停滞していた物語を進める起承転結の「転」なのだ。
彼らに言わせればWUGの藍里脱退劇もシリアスになるんだろう。シリアスとは?)

「アイドルのあり方を定義していない」と書いたが、WUGは設定としてではなく作中において島田真夢の台詞でのみ「アイドルとは何か?」を語られている。アイドルについて自覚的に語るのが主人公の真夢だけだ。
そして、それがもっとも「アイドル」について答えを出しているように思う。世の中にはフィクションによって語りうる事実があるのだ。
そういう結論に3年越しに僕は辿りつき、今こうして記事を書いている。
それほどにWUGは面白い「アイドルアニメ」なので、同じ「アイドル好き」であるアイドルヲタクにも見て欲しいと思っていた。
でも、よく観ていると物語を進めるために切り捨てた「アイドル現場の文化」が見えてきた。それを次に書こうと思う。