百合厨におすすめ! 「シャーリー・ホームズと緋色の憂鬱」


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朝風呂からあがってこれを書いている。
昨日は久しぶりにチアーズで飲んだんだけど、飲んだ後に帰宅してからの記憶がない。気づいたら午前3時に目が覚めた。パジャマは着ていた。でも、風呂に入った記憶がないので「あれー風呂入ったかー?」と思いタオルを見ると昨日使ったばかりのタオルがかかったままなので、新しいタオルを出していないから僕は風呂を入らずに寝たことが判明した。
それにしても最近、変な時間(深夜3時とか)に目を覚める。うーん、早寝早起きってことでいいのか?わからん。
風呂に入る。バスタイムのお供に「シャーリー・ホームズと緋色の憂鬱」を読む。
設定を変えて(舞台が現代ロンドンだったり、ジョン・ワトソンルーシー・リューが演じて現代のニューヨークが舞台だったり、ロバート・ダウニー・Jrジュード・ロウが演じたり、イアン・マッケランが老人になったホームズを演じたりして)、ホームズのパスティーシュ、二次創作として「シャーロック・ホームズ」は繰り返されてきたが、本作もその流れを汲んでいる。
雪広うたこのカバーイラストがかわいくて買ったんだけど、これは設定も面白い。
ホームズ、ワトソンはいわんや、レストレード、グレッグソンも女性になっている。原作と性別を変えているのは、エレメンタリーですでにやっているけれど、ここまでの寛骨堕胎は新鮮だ。
「女と女しかいない」みたいなオタク構文で言えてしまうけれど、その時点で興味がそそられる。
はっと目の覚めるような「生まれてこの方化粧したことがない、ブラジャーはつけてない」美人僕っ子、住んでいるベイカー街221bはミセス・ハドソンというジャービスみたいなAIを開発して身辺の世話をさせてる、ベントレーを気軽に送ってくる姉がいる、人工心臓をもっていて乗馬オリンピック選手であるシャーリー・ホームズ。
「良い暮らしがしたいから」とロンドン大に進学したはいいけど先に進学していたボーイフレンドはもう自分を覚えてなくてという男運のなさを持ち、奨学金を返すために陸軍に入るもそこで上官を不倫関係になりそれがこじれて退役してロンドンに帰ってきたジョー・ワトソン。
面白くなる要素たっぷりだ。
本家の「シャーロック・ホームズの冒険」シリーズは小学生のときに読んだっきり。唯一覚えてるのは、ホームズがモルヒネを打つシーン。「SHERLOCK」「エレメンタリー」は観てる。その程度だけど、久しぶりに買った小説だった。
(買ったのは一昨年っぽい、刷った日付をみると。初版本だった。オタクは初版本に謎のこだわりを持つけど、それは早く買ったほうがよりファンであると示したいからかもしれない)


「ねえ、シャーリーの岐路は? 私みたいに男運で振り回されて探偵なんて職業に就いたわけじゃないでしょ」
「岐路」
彼女は無感動にその言葉を反芻した。
「そう岐路」
「岐路というのは道が複数あるから使用する言葉だ。だとすれば僕には岐路なんてなかった」
「そんなことないでしょ。そもそも顧問探偵になったきっかけとか、バーツに出入りするようになったきっかけとか」
しばらく黙り込んだあと、シャーリーは私が知っている彼女の表情としては珍しく、やや寂しげな顔をして言った。
「敢えて言うなら」
「うん」
「生理学的に独立した存在になった時」
顔をしかめて私は考え込んだ。
「なにそれ」
胎盤からの酸素配給が受けられなくなり、胎児性赤血球の種類が…」
「ああ、わかった。まわりくどく言わなくていいよ。つまり生まれた時ってことでしょ。なんか意外だなあ」
シャーリーはきょとんとした顔をした。完璧に左右対称の顔とふたつの蛍光のブルーアイズが私をまじまじと見つめている。
「すごく哲学的な答えだから。シャーリーってコンピューターみたいって思ってたけど案外詩人だね」
ピントが合わずに何度もシャッターを切るカメラのように、シャーリーは瞬きを続けた。
「どしたの?」
「そんなことを言われたのは初めてだ」
まるで愛を告白されたような顔だった。

いや、愛では!?(百合厨ゆえに斜め上の解釈)
せめて愛の萌芽なのでは。


初めて自主的にまとまった文章を書いたのは、僕が中学生の時だった。15歳だったと思う。
涼宮ハルヒの憂鬱」を観て原作を読んだら「これだったら、おれにも書けるんじゃね? メディアミックスでアニメ化やで!」と思いつきで、400字詰め原稿用紙100枚ほどを1ヶ月書いて頓挫したのを覚えてる。
概算して4万字か。原稿用紙換算するとあんがい少なく感じる。
色々とそれから小説を読んだ。石田衣良伊坂幸太郎奥田英朗舞城王太郎古川日出男三島由紀夫西尾維新村上春樹星新一小川一水ハインラインアシモフ伊藤計劃米澤穂信……。
ぱっと思い出せるだけで、こういう作家たちの作品を高校時代には読んできた。その反動からか、大学生になってからあまり小説は読まなくなってしまったけれど。ノンフィクションのほうが面白い。
入れ替わるように映画を積極的に観始めた。これは伊藤計劃の影響だった。今までも映画は観ていたけれど高校時代は本にかかりきりだったというのも理由のひとつかもしれない。
文章を書くようになって気づくのは「書くことは練習もいらないし誰でもできるけど、テキストのボリュームが無ければ、読んでもらいやすさを差っ引いてもその価値はマンガには敵わない」という小説の弱点だった。
もちろん、ショートストーリーのような例外はあるけれど、わかりやすさはどうしても映像や絵に軍配が上がる。
では、小説の強みってなんだと考える。

実は、映画がもっとも苦手とするものがこいつだったりする。お城やら群集やら爆発やらロケットやらカーアクションやらダンスやらを映し出すときには、これ以上ないというほどにキラキラ輝く映画の画面も、こと心理を描く段になると哀れなまでの無力ぶりをさらけだす。このことを分かっている人は意外と少ない。なにせ、映画人でさえ映画は心理を表現するに素晴らしいメディアであると勘違いしているほどなのだ。
だが、単純な事実として、映画には目に見えるものしか描けない、という悲しい限界がある。
そうなのだ。小説はあるいは、人間の心理を描くに一番相応しいメディアかもしれない。言葉にすることでこぼれ落ちる多くのものがあるにせよ、我々は思考する前にまず言語を前提として思考するのだし、哲学くさく言えば存在は本質に先行するのだ。思考するが故に言語があるのではなく、言語があるが故に思考するのである。 だから、言語の不完全性を勘定に入れた上で尚、いや、言語が不完全であるがゆえに、小説は心理を表現し得ると言える。
ところが、馬鹿馬鹿しいほど単純な事実として、人の心は目に見えないという前提がある。誰がどう思っているのかなど到底描けはしない。役者の演技や美しい(あるいな自然な、または生々しい・・・なんでもいいけど)台詞がニンゲンのシンリを観客に伝えると思っている幸せな人もいるけれど、そんなものは、じつは人間の心理などこれぽっちも描いてはいないのだ。それは心理を演じるヴェールであり、表層であり、思考そのものではない。というよりも、映画の本来的な性質として、映画は心理を「求めていない」。映画に心理は映らないからだ。観客が読み取るのは勝手だけれど。

引用: ザ・セル
https://web.archive.org/web/20070306234327/http://www33.ocn.ne.jp:80/~projectitoh/cinematrix/roadshow_51.html

 

と、伊藤計劃が書いていたので納得してしまう(素直)
これも伊藤計劃が言っていたことだが「誰かの物語でしかないんだったら、三人称より一人称を使ったほうがいい」というのはなんというか励みにある言葉だと思った。

何が言いたいかというと、ジョーがシャーリーに対しての心理描写よかったよな。百合味あるわという話。続刊があればいいな。