WUG2話観た。あと3話も。

WUG新章、第2話を観た。
「松田さーん、お腹空いたよー」と収録中に困らせるのが第一声になったのが第1話。
「前シーズンでは実波、子どもっぽい(と脚本家が考える幼いセリフを言う)キャラクターじゃなかったろう」とその時持ってた違和感がよりハッキリした2話だった。
社長の命令で突然の共同生活を始める、七海が「一人だけ仲間外れはさみしいの!」とツンデレを発揮するなど「アイドルアニメ」らしい脚本。寮生活を描くことを前提にした学園モノでもある『アイカツ!』なら、その必然性はあるがWUGでは、急に安易なキャラ萌えに走ったようにしか思えない……。
ふわふわしてお互い褒めあってるし…,仕事を得るペースがトントン拍子すぎる。
きっと脚本家やスタッフにアイドルを知ってる人がいないんだろう。ヤマカンは「2話まで参加していた」とインタビューで言っていたが、おそらくヤマカンが抜けてからリテイクしたのかも知れない。

アイドルヲタクになったけど……

アイドルヲタクになってよかった事と言えば「自分好みのルックスな女の子のバリエーションが増えた」「可愛い、好きって感情をストレートに伝えても女の子に嫌がられない体験が増える」という事にある。
モテないからオタクなのか、オタクだからモテないのかという鳥と卵の話には、決着はつかないが、「モテないから空いた時間のリソースをそこにつぎ込んでしまう」事は大いにあると思う。確かにアニメはほぼ観なくなった。ソシャゲはやってない。デレステスクフェスも。モバマスは3年前に辞めた。艦これも同じ。
じゃあ、僕はオタクじゃないな……と思ったらアイドルヲタクになっただけだった。
え、オタクじゃなくなっただけで何も意識は変わってないぞ。都内でよく行くライブハウスのある駅や地域がだいたい分かり、夏に行く場所が同じゆりかもめに乗ってもお台場フジテレビになっただけだ。
じゃあ、そもそも「オタク」ってなんだろう?
「オタク」じゃなくなっても、その精神はどこかにあるんだろうか。

アニメやマンガが好きだと言えば「オタクだね」と世間的には言う。「俺/わたしオタクでー」と芸能人は言うし、それを真似て皆そんなことを言う。
じゃあ、ここで仮説を設定しよう。「オタク」についての仮説疫学だ。

「オタク」についての仮説疫学

①【萌えっぽい深夜アニメやマンガ、ソシャゲ、ゲーム好き】

これには大多数の若者がそれに入る。そういう「萌え産業」が好きなのは自覚的に「オタク」な人だ。
方や「コミケ行かないけど/同人誌とか買わないけど/テレビつけたら無料だからなんとなく観てて/ソシャゲだから課金しないでリセマラしてキャラ手に入れたい」程度には好きな人がたちもいる。オタクと同じ物が好きだけど、金は払わない。前者は金を業界に落とし、後者は落とさない。
それが線引きになっていて「オタクっぽい趣味が好きな人」でも「オタク」ではない自己自認が存在する。
それは定義するなら「オタクっぽい趣味が好きな普通の人」に過ぎない。休日に行けばブックオフや本屋にうろついているような人たちだ。暇つぶしにアニメやマンガはふさわしい。だから流行りがくればこだわりなくすぐ好きになる。

②【服装に気を使ってない】

「いや、それはひどい決めつけなんじゃないの?」と言われたらそうだけど、ドラマ・映画にもなった「電車男」で主人公の電車男はアドバイスに従い服装を買えようとしていたし、僕が中学生の頃に読んだ未だに新装し出版されてる「脱オタファッションガイド」がある理由、そしてネットにおける言説では「オタクは服装がダサい」という偏見が根強くある。ということは仮定に加えてもいいだろう。

これは個人差が強いから印象で語るしかないが、「オタクは服装に気を使ってない」は正しい。若ければ服に金を使わないでゲーセンやコンテンツに金を「真っ当なオタク」ならつぎ込んでいるからだ。
年配になれば、おそらく気を使っても人は見てないし(社会性があるので服は清潔であればいい)周りもそうなのでそのまま来たんだろう。
「身なりに気を使わない」という意味で能町みね子は「圏外」と著書『くすぶれ!モテない系』で名付けていたから、それを僕も使おうと思う。
オタクを自認している人が多くいる同人誌即売会に行くと、「圏外くん、圏外ちゃん」率は上昇していく。

「オタクっぽい趣味が好きな普通の人」は普通の人なので、人並みにメンノンやノンノなんかを読み、セレクトショップユニクロ無印良品や自分の好きなブランドで服を買うのでそれには当てはまらない。
服を選ぶという行為は(そして服装を選ばないという行為も)そもそも「趣味」ではない。本人の自意識よりも社会の要求によりする必然のものなので楽しめない人がいるのもムリはないだろう。
その事については、高野雀『あたらしいひふ』『13月のゆうれい』について書くときに詳細を書こうと思う。

じゃあ、アイドルヲタクはどうなの?

ここまで書いてきたが、①と②にアイドルヲタクになると当てはまらない場合が多い。アイドルヲタクの場合は、握手やチェキ撮があるのでアイドルを不快にはさせないために、ライブの後は汗を拭いてグッズの物販Tに着替える。
握手時の会話でアイドルからツッコんでもらいたくて、アイドルが好きなキャラが描かれたシャツやキャップを被っていくのもドルヲタのいじらしさだ。
「オタクは専門職だ!」というパンチラインが昔Twitterにあったが、それに関しては本当にそうだと思う。住むところ変われば、周りも変わるのだ。
目の前にいて会話できるアイドル、ヲタクのノリ、ライブハウスの雰囲気を楽しみたいなら行くしかない。人と場所が発する熱を感じるためにはそれしかない。その自発性が自ら湧いてくる感覚はアイドルヲタクにならないとわからない。

乱暴な結論で締める。
僕は二次元オタク→アイドルヲタクになりどっちも楽しめてるが、それは誰でもそうなるとは限らない。むしろ、二次元オタクはアイドルを毛嫌いする傾向にある。
その事についてはなぜそうなるのかという推論があるので、また別の記事で書こう。

なんで急にこんなに予定にないこと書いたかって、女の子に(告白する以前に)振られたのを思い出して苦しくなったからです!
『13月のゆうれい』は色々思わせるマンガだな……。

ドルヲタ歴3年経ち、久しぶりにアイドルアニメを観たら……

WUGの2期が始まったので観た。個人的な事を言えばそれでハマってしまった。「アニメ」として面白くなっていたのだ。カメラワークやダンスシーンがCGによって慣れ親しんだ物になっていた。人気アイドルアニメである「ラブライブ!」を彷彿とさせる演出にかわり、僕を含めて視聴者は意識せざるをえなかったろう。
そしてWUGにますます興味が出てきた。
キャラクターデザインが変わり、監督の山本寛(以下、ヤマカン)が降板というニュースは以前から聞いていた。
「ヤマカンがいた頃のは、ヤマカン自身やパンチラダンスシーンばかり話題になった印象だったな。2話の健康ランドシーンを観てドン引いてしまったけど、あれを除いて観たら…」
作品としてファンがついている現状からみるに、あれほどエキセントリックなヤマカンが監督していて視聴者がついてきたのか、という謎を知りたくなった。
そこから遡るようにして前編後編に渡る劇場版「青春の影」「Beyond the Bottom」、テレビアニメ1期を観た。

3年前にアイドルを知りたての時に薦めてもらい観たが、「アイドルアニメ」にしては異色なのもわかったが、正直な話ピンと来なかった。どうしてそこまで薦めてくれた彼を引きつける物があるのか。「アイドルとは何か?」という漠然とした問いと「人を幸せにできる人は3つのタイプがある」という島田真夢の劇中で繰り返されるセリフの関係性がわからなかったからだ。クライマックスのダンスシーン、ローカルアイドルというアイドルアニメとしては新鮮な切り口は分かったけれどもそれだけのように思えたからだ。偶然観た2話のスーパー銭湯での水着営業シーンに下世話さや嫌悪感を感じてしまったのもある。
当時の僕は「アイドルアニメ」については観ていたし知っていた。『アイドルマスター』『アイドルマスター シンデレラガールズ』、『ラブライブ!』『アイカツ!』『プリパラ』は観ていたし、シンデレラガールズの1st、2ndライブに行き、スターアニスNHKホールでのワンマンライブも行った。でも、実際のアイドルについてはほとんど何も知らなかった。
ひめキュンフルーツ缶のライブに2度行き、プロデューサーの伊賀さんからチェキ券(500円)を買おうと1000円を出すも「1枚でいいの?」と言われて、つい2枚チェキ券を手渡され1000円取られたという鮮やかな手に引っかかる程にズブの素人だった。そのとき撮ったまいまい(岡本真衣)を2周したチェキが今もまだ残っている。

つまり自分が「アイドルアニメ好き」としてWUGを観ていたので、その時点では「ヤマカン……大丈夫か?」という決して好意的ではない評価をせざるを得なかった。

もちろん、WUGは「アイドルアニメ」だ。
でも、珍しく「スクールアイドル」や「スターライト学園」などといったフィクションの設定で「アイドル」のあり方をアニメの世界で定義していない。そういうフィクションの大枠で誤魔化さない「リアリティ」を担保していた。脚本面も含めてアニメというよりは邦画やノンフィクションに近い「アイドルアニメ」だ。
アイドル関係のドキュメンタリーは盛況でAKB48やBiSのドキュメンタリーが昨今は有名だ。
(6話の藍里を切り捨てて活動を続けるかどうか10分で決めろと言われる中でのメンバーのやり取り、7話の藍里と佳乃が本音をぶつけて泣くシーンはアイドルアニメとして硬派な脚本だ。
アイドルマスター 輝きの向こう側へ』で、志保が「私たちにはもう時間がないんです!」と憤り、ダンスを変えるかどうかを決を取るシーンがあるが、あれを「シリアス展開」と呼ぶ人が多いことに当時驚いた。
ラブライブ!』でもなんの脈絡もなくことりがフランス留学を決めて、ラブライブに出場できないというメンバーが浮かない顔になる展開が起こる。ラブライバーやオタクに言わせれば「シリアス展開」らしい。
でもそれは違う。停滞していた物語を進める起承転結の「転」なのだ。
彼らに言わせればWUGの藍里脱退劇もシリアスになるんだろう。シリアスとは?)

「アイドルのあり方を定義していない」と書いたが、WUGは設定としてではなく作中において島田真夢の台詞でのみ「アイドルとは何か?」を語られている。アイドルについて自覚的に語るのが主人公の真夢だけだ。
そして、それがもっとも「アイドル」について答えを出しているように思う。世の中にはフィクションによって語りうる事実があるのだ。
そういう結論に3年越しに僕は辿りつき、今こうして記事を書いている。
それほどにWUGは面白い「アイドルアニメ」なので、同じ「アイドル好き」であるアイドルヲタクにも見て欲しいと思っていた。
でも、よく観ていると物語を進めるために切り捨てた「アイドル現場の文化」が見えてきた。それを次に書こうと思う。

これからの予定

とりあえず、二つ書きたい事がある。

 まず、高野雀「13月のゆうれい」「あたらしいひふ」を読んで感じた自意識と服の悩みについて。これは「逃げ恥」も入れて語る必要がある。

あとは、ついに「WUG」を完走したので今まで観た二次元アイドルアニメと実際のライブ現場からみた考察だ。
僕は元モバマスプロデューサー/アイカツおじさんだったのが、今やドルヲタになった。その立場や取り巻く環境から見えてくるどうアイドルアニメが描いた「アイドル」と描けなかった「アイドル文化」についてをまとめたい。

 プールイのダイエット失敗による活動休止からの炎上騒動で、ハッフルピンポストや他メディアからも話題になったBiSのマネージャー渡辺淳之介
監督を降板になり、2期放送直前に声優の発言から端を発してまた攻撃的な発言を繰り返しているアニメ監督山本寛。この二人の類似性についても「アイドル」を語るにあたって大事なことだから語ることにしよう。
方やアイドルヲタク(厳密には活動初期から震災時におけるももクロヲタ、ハロヲタ)のアニメ監督。
方や、アイドル業界に新風を巻き起こしたマネージャーでありA&R。
接点のない二人が「アイドル」を介して見えてくるものがある。

 

今書きたい気持ちが高まってるのは、WUGについてなのでそれから始めようかと思う。